
|
Andrew 非常に大事な問題だと思います。言われたように彼の行動の背後に何があったのだろうということを見極めることは大切なことだと私も思います。物理的に触れたい、物理的にケアを求めたという背後に何があったのだろうとか。
Wendyとも話をしていたのですが、セックス的なタッチを求めたのではなかったのではないかと思ったのです。妻というのはセックスパートナーだけではなくて心理的に支え合っていたパートナーであったし、自分をケアしてくれた人でもあったし、友でもあった。その愛妻を失う時が迫っているということで、英国では3ヵ月も休みをとって看護チームのメンバーとして個室に妻と過ごすなどという人はほとんどいないでしょう。ですから彼らはよほど密接な夫婦だったのではないかと思います。そういうことを考えるとやはりもっともっと複雑な問題ではないかと思います。
Wendy セックスの問題というのは話すのがためらわれるように思いがちで、特に患者さんや家族が関わってくるとなかなかオープンに話のできない問題ではあると思いますけれども、患者にしても家族にしても人が死ぬ、人を失うということは触れ合いを失うということにもなるでしょうし、それからまたセックスができなくなるという意味での喪失もあるのでしょうけれども、英国では「カーペットの下にごみを掃く」という言い方をするのですが、臭いものには蓋をしろとはしないことが大切ですから、目をつぶることで問題の解決にはならないのではないでしょうか。
丸屋真也 この夫婦の場合には、共依存の関係が多分あっただろうと思うので、そのへんのアセスメントを早めにしておくことが重要だろうと思います。その時に夫が求めているケアのなかにそれを受け入れてしまったという部分があるのだろうと思います。ですからそれがずっと発展していってそこまでいったのだろうと感じるのです。前の段階で共依存関係というものが見えたら、そこをきちんとした理解の中で対応していっていれば、ある一定のところで止まっただろうと思うのです。
看護婦側としては、相手のモティベーションは何かということが非常にわかりにくいわけですから、看護婦が許せる範囲、たとえば行くのがいやにならない範囲でタッチできる領域はそれぞれ看護婦さんによって違うと思いますから、それを自分自身できちんと理解して、自分でこれ以上耐えたら後でいやな思いをするという領域を自分なりに知って、冷静にノーといえる態度をトレーニングしておくことが重要だと思います。医療者側にもそういうところのバウンドリーがクリアになっていない、科学的に理論的にされていない部分からこういった問題が起こってくるのだろうと思うのです。
−これは家族だけではなくて、患者さんと看護婦さんとの関係でもよくあるのですけれども、私の患者さんで白血病で亡くなった方もやはり、お年はいっていましたけれども性欲と食欲はあるといっていた人で、看護婦さんが行きますとお尻を撫でたり手を握ったりする。看護婦さんたちが、いやと言ったのです。実はその患者さんは俳句の先生でして、それを聞いてこんな句をつくったのです。「看護婦は魔女のような冬の虹」。わかる人にはきちんとわかると思いますので、ノーと言っていいのではないかという気がします。
武田 日本の病院で接触が必要だということはわかるのですけれど、家族にまではタッチをしないじゃないですか。日本人は挨拶するときに握手もしないでしょう。ですから日本の普通の病院で看護婦さんの体に触ってくるということはやはり特殊な問題であって、これを愛情を求めたという言い方はいけないのではないかと思います。愛情を求めたという表現をするところに罠があるかもしれない。
私の病院でも家族があまり患者さんのケアに手を出さない、そして全部ナースにおまかせ、患者さんの涙が出ても拭いてもあげない、これは看護婦の仕事だからというような日本の家族が増えてきているようなので、看護婦は家族の役目まではできませんということをきちんと病棟を管理している人が言ってあげないといけないのではないでしょうか。それと同じことが家族と看護婦さんの間にもあるのではないかと思います。
前ページ 目次へ 次ページ
|

|